糸魚川の翡翠にまつわる伝説


古来より翡翠(ひすい)を身につけていると、魔除け・厄除けになると共に幸運を招く『愛に満ちた幸せ』の石として珍重され最高の装飾・装身具として愛用されてきました。

神話と歴史が混在する弥生時代後期から古墳時代に、越(こし)(古志)の国(現在の新潟県糸魚川市近辺)頚城(くびき)郡奴奈川郷を「奴奈川姫(ぬながわひめ)」という女王が翡翠(ひすい)の勾玉(まがたま)を身につけ、霊力を発揮して統治していました。

この姫は「賢し女(さかしめ)」「麗し女(うるわしめ)」と言われ、賢く美しかったので遠く出雲の国まで評判が聞こえていました。

出雲の国の王である「大国主命(おおくにぬしのみこと)」は、この姫を嫁にするべくはるばる越(こし)の国までやってきて妻問い(つまどい)(男が女のもとに通って求婚すること)の後、結婚して一子をもうけました。

《これは日本最古の書物である『古事記』の上巻に求婚の歌として記されています》

この子どもが御柱(おんばしら)の奇祭で有名な諏訪大社の祭神「建御名方命(たけみなかたのみこと)」です。

三人は能登で暮らしていましたが姫は越(こし)に帰り、この地方(越)に地盤を残して「大国主命(おおくにぬしのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)」は出雲に帰りました。

このころ日本の中央では大和政権が力を伸ばし、日本の統治を目指して出雲と交渉の結果、国譲り(くにゆずり)が行われることになりました。

しかし「建御名方命(たけみなかたのみこと)」はこれに反対して大和朝廷と戦い、敗れて母の国まで逃げてきましたが、大和の追撃が激しく長野県の諏訪市まで逃れ、ここでついに大和朝廷と和解しこの地の祭神として祀られることとなりました。

出雲や大和が遠く越の国まで遠征してきたのも、この地に産する翡翠(ひすい)を手に入れ、それが持つ霊力によって人民に対する支配をより強固にするためだったと思われます。

その証拠に仏教の伝来より後には、急速に勾玉の価値が減じ、ついには日本人の記憶の中から翡翠(ひすい)そのものが忘れられてしまっています。

昭和十年代の中頃までは、日本各地の遺跡から出土する翡翠(ひすい)は中国から渡来したものと思われていました。

帝国大学の河野教授により新潟県糸魚川市の小滝(こたき)川から産出した石が翡翠(ひすい)の原石であると証明され、科学的検査の結果、各地から出土した全てのものが糸魚川翡翠(ひすい)であると証明されました。

その中でも出雲大社の神宝である「ろうかん翡翠(ひすい)の勾玉」は、最高級品質で国の重要文化財に指定されています。



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